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ドクダミ系つぶやき日記

くすぶりながら転がりながら日々の思う事を。

タイミングとかの問題

タイミングというのは本当に大事だと思う。

すべてはそれによる、といってもいいんじゃないかと思うくらい大事だな、と思う。

 

そういう流れになっていないのに無理やり自分の気持ちのケリをつけたいだけで

物事を押すと、必ず歪みがでる。そのときはうまくいったとしてもだ。返って後から

大きな代償を払うことになったりして、自分のしたことのなりゆきを反省したりする。

ダメな時はダメなのだ。気持ちを収めることも必要だなと常に思う。

アンテナを張っていれば、また次のタイミングをつかむこともできる、と自分に言い聞かせる。

 

私はまったくスピリチュアルなタイプではなく鈍感に生きているけれども、偶然のタイミングは意外と信用する。ああ、このタイミングできたか、ってことはこっちに行く方が流れなんだな、みたいな。

渦中では気が付くことはできないんだけど、そのタイミングにある渦に巻き込まれている間はなぜか時間がゆっくり流れているような気がする。

今、自分がその渦の中にいるのかどうか、後数か月したらわかるだろうか。

 

距離と時間と

他人との距離の置き方というのは誰から教えてもらうものなんだろう。

一番身近にいる母親からだろうか。母親のコミュニケーション能力というのが

子供に影響するのは間違いない。でもそれだけではないな。

 

流れている時間というのも人それぞれで、今か今かと待っていれば長く感じるし

気にもかけない程度ならあっという間に過ぎていくもの。

いやだなあ、と思うのは「なぜ会えないのか」を問い詰めてくる人。会いたくないから

会わないのだし、自分の都合を私に投げて受け止めてくれることをいつもいつも期待されるのはごめんだ。時間の都合をつけないのは、忙しい最中にそこに労力をかけたくないからだ。会わない理由を聞き出して、それがなんになるというのだろう。

仕事や家庭の事情で身動きできないこともあるし、流れている時間は皆同じだが、体感している時間の長さは皆それぞれだ。

とはいえ、逆の場合もある。

こちらは会いたいなあ、と思って連絡しても今月は厳しい、と無下にされてしまうと

えー、そっちから飲みに行こう、っていってたのに?と思わず問い詰めてしまいそうになる。

自分が問い詰められたときのなんともいえない窮屈感を知っているので、「忙しかったら無理しないで」などと心の中とは真逆のことを伝えたりする。

また、会いたいなあ、と思ってもらうにはそういうしかない。そして、なんとなく連絡を待ってしまう。待つのは嫌いではないけど、気持ちが消耗する。

 

私は人との距離を詰めるのが苦手だし、議論もあまり得意ではない。ちょうどよい距離感を作りだすのに時間がかかる。受け身になってしまう部分もあり、改善したいという

思いから空回りしてしまうこともしょっちゅうだ。

 

気負いせず距離感が掴めるようになるのは一体いくつになったらできるんだろう。

この年ではもう絶望的なのかしら。

 

 

妻という事

妻というポジション。妻である、というポジション。

 

ある程度月日を重ねていくと、男女の関係は友情のようなきょうだいのような、会わなくてもやきもきしたりしない距離感になっていく。

二人の間にある情、は水みたいに器が変われば形も変わって、途中乾いたりこぼれたり

月日が長くなる分だけそのあり方は変化していく。

 

人の生き方と一緒で夫婦のあり方もいろいろ。

 

ぶつかるときもある。

怒りを相手にぶつけても、コントロールできない、と分かったのはいつだったかな。

相手を受け入れる姿勢を見せないと怒りでは状況を変えることはできない。

頭にきたら、すぐぶつけない。文章にする。沈黙は弱さではない。

グレーの状態であることに不安を感じない。不公平で理不尽でも、気持ち次第では

どうにかなったりする。

 

ある一定の信用があれば、始終一緒にいることもなくてもいい。

すべてを正直に話す事が正当だとも思わないし、相手が望めば話を聞く。こちらも話しをする。相手を理解しようとする態度、(本当に理解などできないのだから)共通の目的があれば多分、うまくいく。

 

浮気に激怒したり、権利を主張したり。そういう事のために妻でいるわけではないでしょう?

 

妻というポジションにはすっかり興味がないのだけれども、誰かの大事な理解者、っていうのはなんだかとても価値のある事のような気がする。

 

想像力のなさが引き起こす事象

世の中がおススメする人生をなんの疑問もなく、歩んで、ほーら、

私、正しいでしょ?みたいな顔してわかったような事をいわれても、

もともとそういう生き方をしたい、と思っていない私にはなーんにも

意味がない、と早く気が付いてほしい。

(実家に子供預けたらかわいそう、とか保育園にいってるかわいそう、とか

その想像力のなさがかわいそうだよ。 )

 

 

いろいろな生き方があっていい。

家にいて専業主婦をしたいひともいれば、働きたい人もいる。個人的には一人で食べていけるくらいは稼げるような人とじゃないと、一緒にいても楽しくないし、どこも悪くないのに誰かの保護に入ってアクセサリーみたいに生きるのはなんとなく窮屈だな、と思うけど。置かれたポジションというのもあるだろうし。人さまの生き方に何かを言える義理ではないので否定はしない。けど、肯定もしない。

それぞれでいい、私も違う視点からみたら、子供との時間を犠牲にして働いでいるろくでもない母親だろうから。

 

私が見てきた世界とあなたの見てきた世界は違うのだから、選択が違ってもそれは当然のこと。想像力のなさから、私が生きてきたやり方を否定して、自分の虚しさを埋める材料にしないでね。私は私、あなたはあなた。

見えているようには見えていないかもしれない

なんとまあ、最後に書いたのが昨年の10月。今、4月だから、約半年近くも離れていたのかと思うと少し驚く。

 

去年の10月から今までにはそこそこうねりのある出来事があったり、気持ちの整理が難しいな、と思うことも多々あったなあ、と思う。

ささいな誤解が続いたこともあって、自分が感じているように他人は感じていないのだな、という事を最近特に実感する。

皆、自分が経験してきた事の上に判断をし、それぞれの価値観を持つわけだから、言った事がうまく伝わらなかったり、そういう意味で接してきていないのにな、という事はあって当然なんだけど、でも、やはり分かってくれるんじゃないか、前提で話をしてしまっていて。そんでもって、時々反撃に遭って、凹む。びっくりして、それまで保っていた距離が間違っていたのかと思って、一気に距離を取って警戒する。それが私のいつもの防衛術なんだけど、果たしてそれがお互いにとっていい方法なのかはわからない。

自分が楽になりたいのと、頭を冷やしたいので近づきたくなくなってしまう。

慎重に言葉選んで、距離を保ちながら進めてきた事、いきなりひっくり返ってしまって、ひるんでいる。何かどこかで解釈を間違えたのか、元々勘違いしていたのか。

 

さて、ここからどうしようか。

自分が見えてる世界は、実は自分が考えているようには存在していないのかもしれないな、とかいろいろ考える。

だから、人も同じ。

自分の見えているようには見えてないのだ、と思っている方が多分、正しい。

シンプルでいること

 私自身はプレゼンをする機会はないのですが、他社の発表を観る機会が続いたので魅力あるプレゼンとは何か?みたいな事を想い・・・ガー・レイノルズ氏のシンプルプレゼンテーションを借りました。

f:id:itaimono:20151019104422j:plainこのパッケージデザインはうーん、な感じですけれども・・・

 

シンプルにそぎ落とす事、(シンプル過ぎない事)、ビジュアルに訴える事で記憶に残せる・・・等をちょっとしたジョークやワークショップで聴衆と一体になりながらプレゼンを進めていきます。

一方的でない事。聴衆に共感し、共感させる事。

これは多分、普段の仕事・人間関係すべてに共通する事で誰かに何か聞いて欲しかったら、まず相手に共感してから、だということかもしれません。

 

共感力。

人を動かすにはここが肝。

 

他に重要な要素として、シンプルである事。

シンプルでありながら、単純ではなく奥深い。

これは私の目指したい方向です。くだらないのですが、自分の中に基本方針5項目ってのがありまして。

 

1 俯瞰できること

2 感情的にならないこと

3 友達は大事に

4 変化は楽しむ

5 シンプルでいること

 

こんなことでも自分自身に謳ってあげないと、私はどーもごちゃごちゃしてしまうんです。表面には出にくいタイプですが、感情的でネガティブで保守的で執着しやすい。

そこから離れることができるように、行き詰ったら基本方針を念仏のように唱えるんです。(笑)

 

ガーさんのようなあたたか味がありながら、なおかつ理路整然としているプレゼンには遥かに遠い私の思考。まだまだそぎ落としていけるかな。その前に無駄に気が付かないといけません。

 

 

 

夫婦でいることの意味

父が事故で入院して、母が病院へ日参して世話をしている。

 

私が小学生の頃には両親は既にあまり仲が良くなかった。父は単身赴任で3,4年ごとに海外へ行き、たまに日本に帰ってくるという半母子家庭のような生活をしていた。

仲良くなくても、冠婚葬祭、学校の行事等は淡々とこなす父と母。

父が用意している赴任前のスーツケースに避妊具が入っていても、「男だからね」的に「日本製はいいらしいわ」と表情変えずに空港まで見送り、責めることなく、時々手紙や日本食を送ってあげていた。

二人で仲良く何か一緒にする、とか両親が2人で楽しそうだな、とかはあまり記憶がない。

母は多分、金銭的な面、父親という存在が私には必要であったろうことで自分の気持ちは一番後回しにしてきたんだろうと思う。

かといって、母には悲壮な耐える女、みたいな感じはない。

時々カラリ、と毒を吐いたり、友達と遊びにいったりどこか自由な感さえある。

 

ここへきて思うけれども、夫婦とは最早好きとか嫌いとかじゃないのかもしれない。

生活共同体。

私自身が経験した結婚はどこまでも自分の気持ちに忠実でありたい、という結婚だった。いかに自分がどう感じるか、っていう。自分どう感じるかを相手に伝えるのは大事なことではあるけれど、ある意味私の気持ちを受け取ってというエゴでもあるし、支配でもある。

母はその点では私とは違うのだろう。

 

あれだけ酒にのまれて好き勝手にしている父を世話できるのは愛というより義務感からだと思うし、それは長い間夫婦として過ごしてきた慣習みたいなものなんだろうか・・・・

 

結局、恋愛どうのこうのいっても、それは一時の感情のうねりでそれが一生続くことはない。男女の間で最も大事なことって、自分の人生を任せられることなのかしら・・・と、母を見て思う。

幸せなのかどうか、はよくわからない。でも、母がよければそれでいい。