ドクダミ系つぶやき日記

くすぶりながら転がりながら日々の思う事を。

次、どうするか

嫌な事やショックな出来事というのは定期的にやってきて、そのたびに

ダメージを受けたり自分の不甲斐なさにしょんぼりしたり、思いあがっている

頭をガツ、っとやられる。

今回は本当にむき出しのエゴを投げられて驚いたのと、それに対しての自分の感情が嫌で仕方がなく、もう後がないというくらい、自身の在り方について考えさせられた。

 

気が付けていない事が多くてうんざりする。

それまで自分が全く安っぽくて薄っぺらで。

ああ、全く間違って生きてきたんだな、結局逃げてばっかりで楽な方へ流れていた事のツケがきたのだ。逃げ癖が付いているんだ、私の人生全般。

その時はベストだと思っていた選択も、執着と狭い視野からくるエゴにまみれた

ものだった。本当に自分を知らなかった事に呆然としてしまって、そうやって思った事を忘れてしまわないようにこれを書いている。

セラピー的に自分の目線をそらすことはできるけれども、それをやってしまっては

結局前と同じ自分だ。

 

自分の欲求を満たしたいがために人を操作することをなんとも思わない人、ほしいものを得られないとわかると途端攻撃して、貶める行為をしようとする。こういう人に関わり続けるのをやめなくてはいけない。

自分もそうなってはダメだ。彼らの欲求を埋めて自分が必要とされる満足を得られたとしても、それは対等ではないし、単に都合のいい道具というだけ。それは人間関係の情というのはなく、欲。欲求は際限ないし、

そこに承認欲求の照準を充ててしまえば、縛られ続け疲弊する。疲弊しても使われる自分に気が付かず相手のせいだと転嫁していては一生そこからはでられない。

責めなくてはいけないのは。

自分のエゴに穴が開いていて、それを相手のいいなりになることで充足を感じている、という事だ。いやだと思いながらなぜ関わり続ける?その薄っぺらい承認を得るために自分の時間を費やしている事にどんな価値があるというのだ。

 

今見えている感情は恐らく今まで避けてきた私のコンプレックスだと思う。

もう少し、向き合う。

なんというか、それまでの自分が遠く感じる不思議な感じだ。

渋谷

私は都会の生まれではないのだけど、子供のころによく渋谷に連れてこられたのを

覚えている。今は移転してしまった五島プラネタリウムは父が好きな場所で、滅多に

日本にいなかったのだけど、帰国した際には親子で行った。私は全く父が好きではなかったし、親子で出かけたくもなかったのに一緒にいったのは渋谷という街の感じと

プラネタリウムの非日常が好きだったからだと思う。

今、プラネタリウムは移転してしまっているけれど残っていて会社の窓からその天井が見えるのがうれしい。

 

(五島プラネタリウムへ行くのにエスカレーターを上りながらみたあの広告が、のちにフットルースケビン・ベーコンだったというのがわかってなぜか妙な気持になった)

 

今でも渋谷は時々行くのだけど、その変わり方は着実で毎回行く度に出入口に迷う。ビルも解体やクローズが進んであの南口の裏さびれた感じもいつかは一新されてしまうんだな、と思うと寂しい感じがする。

 

私は本当に変化に弱くていけない。

子供のころに見た渋谷はもうあらかた変わってしまっている。私自身、相当歳を食っているし、そら街並みも変わって当然。

いろんな事は全部変化していくのだから。

 

 

 

 

 

 

どうやったらエゴを認められるのか、とか

自分がしてほしい事が叶えられなかった時、期待していた事をしてもらえなかった場合、そこには怒りとか妬みの感情がどよん、と発生する。

他者が自分の思う通りに動いてくれない時、状況をコントロールしたい、自分の中にある感情を癒すために怒りをもって相手を威圧して支配下に置こうとする。

怒りの下には傷ついた感情があり、認めたくない事実がそこにある。

 

なぜその事実を認めたくないんだろう。

自分にとって不都合だから、とかプライドが傷ついたとか?

結局は自身のエゴがのたうち回っている。エゴを認めることは自分の傷を直視しないといけないし。なぜ、そのことに傷つくんだろう。嫌だな、って思うんだろう。

何かを失くしたような気になるからかな。

見逃し続けたらいつまでも変わらないし、自分の気持を満たしたいだけの子供とそう変わらない。それを繰り返しても充足は恐らくなくないどころか、始終自分の感情を怒りに縛られたまま毎日を過ごさないといけない。

 

それでいいんだっけかな・・・

 

怒りの感情をばらまいたとして、それは一時的には気分がいいだろう。

感情の排泄、っていうのかな。出さなければ精神衛生上よくないのも分かる。

我慢、ではなくてその怒りの種類の感情の向き合いを変えるには。

 

失くす事に鈍感になること?

 

内観 

好奇心はそこそこ強い方だし、新しい事やモノ、人に会って世界が広がるのを感じたりするのは好きだ。それはもしかしたら、厳しかった父からの逃げ場で何か違う自分に

なれたりするような感覚を味わえたからだったかもしれないけれども。

 

私本来は内向的で、特に人に会うとエネルギーをかなり消耗してしまう。その人に

楽しくいてほしい、嫌な思いをさせたくないというドライブがかかってしまい

必要以上にあれこれ考えてしまう。嫌われるのが怖かったのか、と思う。

なんて弱い。

そういう自分が嫌だな、と思ったり内向的というのは世間的によろしくない、という刷り込みから自分にロールを課していたのだが結局よく思われたい、という弱さ。

 

自分をよくわからずにこんな歳まで生きてきてしまった。バカだな、と思う。

 

今更、本当今更だけど、なぜこの感情を持つのかとか、どうすると充足感が得られるのか、だとかは自分自身をよく知らないとわからない。実際表面にでてくるのは2次的な

感情だと思う。私の場合。

 

世の中がヨシ、としているレールが幸せだと思い込む。

みんな違う人生なのにおんなじ箱に入っていられるかな?

考えていないからだ。

失敗したら誰かのせいにしてそこから学ぶこともない。で、また同じ事を繰り返してずっと不満を言い続ける。幸せと思う事をパッケージ外注しても自分に合うとは限らないわけだから。

 

今年はひたすら内観しようと思っている。

遅すぎるくらいだけど、蓋をしてきた感情を開けたら、一体何を自分はしたかったのか

満足を感じられるのか、諦観と達観が得られるだろうか。

昔からの付き合いとか、惰性を感じる人間関係はこの際整理する。

大事だと思える人と気持ちの通じ合う会話ができるように。センスや価値観のズレる人に時間を割かない。変な期待はしない。

変えられるのは自分自身だけ。人と状況はコントロールできない、とちゃんと理解したい。

 

12月という語感とか

12月。

冬に向かうにつれて寒いのが苦手なのでなんとなく、バイオリズムが落ちる気がする。

ああ、もう今年も終わりですね、っていう挨拶のなんかさみしい語感も好きじゃない。

春の終わりから夏に向かう季節が懐かしいなあ、って思う。

 

なんのかんのと1年を振り返ったりしてみるけど、今年は感情の起伏が激しかった年ではなかった。いい意味で。自分の足りないものを他人の中みつけようとするのもいかん、と思ったし、負の感情はむき出しでぶつけてはいけない、加工してダイジェストしてから、そうでないととんでもなく下品になってしまう、と気をつけるようになった。

とはいえ、まだまだ動揺することは日々あるし、謙虚さをなくすこともしょっちゅうだけど、自分への満足感は高くなった。飢餓感が抜けた、というか。

 

エゴがむき出しの人。

自分の都合や主張に引き込もうとする人。相手から搾取することをなんとも思わない人。自分を受け入れてくれないとわかると怒りだす人。こういう人に振り回されないように。自分がそうなってもいけない。

 

去年の自分がとても遠く感じる。何があったわけでもないのに。

年齢を重ねるということはこういうことなのかしら。

何かを変えようとするより、自分への満足度を変える方が物事は変化するんだな。

introvert

私はもともとは内向的な性格で人と密に付き合うことが億劫なタイプだ。

一人でいることの方が気楽だし、誰とも話さなくても食事を一人でしても

さみしいとは思わない。朝から晩までだれかといるくらいなら、一人の方に

してくれる方がいい。

雨の日は出かけなくては、というプレッシャーから逃れられるから好きだ。

日曜日の朝から雨が降って読みたい本があったら何より安らぐ。そう思っている人と

友達でいたい。

 

とはいえ、社会にでるとそんなに自分勝手に一人になれるわけではないし、仕事で

人にあったり、子供がらみの地域のイベントに参加したりして、薄いつながりとコミュニケーションをとらないといけない場面はしょっちゅうだ。

社交という鎧を身に着けて、スモールトークという武器を背中にしょって、自分の居心地が悪くない人間関係を構築しておかないといけない。お金のため、子供のため、自分のため。

この人間関係もそんなに馬鹿にしたものでもなく、時には楽しい瞬間なんかもあるから

全く価値がないこともない。好きか嫌いかでいえば嫌いだと思うけど、気分が変わったり、思いがけなく影響受けたり、新しい見え方を発見したりするので、必要ではあるんだなあ、と解釈している。エネルギーをかなり消耗するのがつらいが、性質だから仕方ない。付き合いの浅い人には私は社交的に映っているらしいから、びっくりする。何をもって社交的なんだ一体。

誤解だけど、それは誤解でいいのだな。恐らく。いちいち本来の自分をさらす気もない。

 

そうやってなんだかんだ毎日転がりながら過ごしてきたけれど、ここダイエット始めて走るようになってから、自分の内面に(今更)目が向くようになった。走っている間は手足を動かすという作業に集中して、無駄な思考が抜けるせいか、考えすぎないようになった気がする。疲れて考えられないっていうのもいいな。

 

シンプルになった感。

コミュニケーションは相手の事を考え、楽しくあるように、と気を張っていた部分あった。苦手な分野で無理をしていた。後で「ああいえばよかった」とかグダグダしてばかりだった。

そういう事が遠く感じた。もっと自分がどう思ったかを単にフォーカスしてもいいと思った。内向的な部分に罪悪感をもたなくていいんだな、と。

まだ11月だけど、今年の収穫だと思った。こうやってもっともっと無駄な思考がなくなればいい。

 

気持悪いと思う事

セクハラ糾弾が日本でも世界でも。

 

私自身は職場の男性からそういった事に遭ったことはないけれども、痴漢に遭う事は

何度もあった。世の中の女性のほとんどはあるのかもしれない。

被害に遭う女性がどれだけ不快か想像がつくか。加害する側にもなんらかのストレスは

あるとは思うけど、そこは同情したくない。

 

特に頻度が高かったのが12歳くらいの頃。

本屋で立ち読みしてたら、後ろから足を撫で続けられるとかこれを買ってあげるから

どこかへ行こう、とか、通学路ランドセルしょっている後ろからお尻をつかまれたりして男性というものが恐かった。モテ自慢ではない。他校の男子から妙な手紙をもらったり写真を撮りたいと追いかけられたり。自分が好きでもないのになんでこんな目に・・・と思った。発情している男性性が心底気持ち悪かった。私に男兄弟がなく、父親は単身赴任で生活に男性がいなかったせいもあるのかもしれない。

中学に入る頃には男性と話すことをシャットアウトしていたと思う。年齢が上がるにつれて頑なさも緩和したのだけど、飲んだ帰り道に妙な男性につきまとわれて首をつかまれ痴漢される、という暴行まがいの事をされた時、エゴをむき出しにしてくる男性が本当に嫌になった。なぜ、私がお前の欲情の捌け口にならないといけないんだ?

 

年齢が低ければ低いほど、性的にダメージを受けることは、のちの男性観に深く影響すると思う。今でもいかにも、「雄!!!!」って感じの男性が苦手なのはそういう体験からなのかもしれないと思っているくらいだ。

そういう男性に触られて「やだあ~」と身体をくねらせている女性は、嫌なら向き合いをもっと考えないといけない。そういう態度も助長しているんだし、いいようにしか解釈されないのだから。

 

エゴと愛情を勘違いしている人、(女性も多いか)気持ち悪くて耐えられない。

何をそんなに支配したいんだ。自分の欲求を他人に解消してもらおうと思わないで。